人から学び、刺激を受ける、
出会い豊かなキャリアの幕開け。

私の父は、自宅の一角を町工場のように改造し、海で使う流速計などの機械装置を作っていた人でした。 父に連れられ、幼い頃は私もよく海に行った覚えがあります。 大学は東京水産大学(現・東京海洋大学)に入学して、水産学部の海洋環境学科で海藻の研究をしました。 海藻って、海流の状況で成長の仕方が変わるんです。 常に水が流れていて、新鮮な海水が葉に当たり続ける環境の方がよく育つ。 人間もそういうところがあるかもしれませんね。

東北大学の大学院に進学し、2年勉強を続けたのちに、まだまだ海関連の調査研究がしたくて日本海洋事業に入社しました。 2005年当時、当社の育児関連制度はお世辞にも整っていたとは言えず、子どもを産んだ女性の多くは辞めていくのが通例でした。 私は先のことをよく考えていなかったから入社できたようなものです(笑)。 入社後は海洋科学部(現・調査事業部)に所属し、船に何ヶ月も乗りながらさまざまな調査に従事しました。 JAMSTEC DONET(地震・津波海域観測監研究開発センター)に出向していた時期もあります。 そこのトップの方が超人的な人で、優秀さは言わずもがな、仕事に向かうエネルギーが桁違い。 私は彼の働きぶりを間近で見ながら「人間ってこんな風に働けるんだ」と衝撃を受けていました。 彼をはじめとして、仕事の中身よりも「こういう人がいた」ということばかり思い出されます。 人から学んだことが多かったように思います。

2011年の4月に第一子を出産しました。 この時にはすでに当社でも制度が整い始めており、ちょうど私の出産の少し前に育休取得第一号の先輩もいたことから、私も特に気負うことなく1年間の育休を取得しました。 復帰後は陸上勤務となり、海務部にて主に船の燃料調達の仕事に従事。 時短勤務(9:00〜16:00)は1ヶ月だけ使うことにしました。 陸上勤務で海からは離れることになったものの、乗船時には見えてこなかった「航海の全体像」が見えるようになったのはとても面白く思いました。 また燃料を調達してくれる商社の方々など、社外の人との交流も刺激的でした。 商社の方々ってすごいですよね、彼らの先読みが会社の売上を直接上下させるという緊張感の中で仕事をされていて、かっこいい。 当社の社員はもう少しアカデミック寄りというか、利益よりも純粋な探求心や好奇心で仕事をしている人が多いので(笑)、全く違う外の世界は新鮮でした。


あらゆる制度を活用し、
「小一の壁」は会社と一緒に乗り越えて。

第二子の出産は2013年4月。 この時も育休は1年でしたが、復帰後の時短勤務は前より長く1年間取得し、その後フルタイムに戻りました。 やはりフルタイムは大変で、17時半に勤務終了、18時に保育園、そこから「21時までになんとか寝せたい!」と思うと子どもたちの話をゆっくり聞いてあげる余裕もなく、ご飯にお風呂に寝かしつけ。 いつも「早く、早く」と言っていた覚えがあります。 もう無理だと思ったこともあったかもしれませんが、正直忘れました。 一番大変だったのはやはり子どもが病気をした時でしょうか。 インフルエンザのA型とB型に立て続けに子どもが感染した時は修羅場でした。 「子の看護休暇」はもちろん使いましたが、どうしても会社に行かないといけない日は病児保育にお世話になりました。 存在する制度・サービスはすべて使ったと言ってもいいかもしれません。

それでも困ったのはいわゆる「小一の壁」のタイミング。 学童保育が17:30に終わるのに、私の仕事も17:30に終わっていたら子どもの帰宅に間に合わない。 小一から鍵を持たせることにも抵抗があり、会社に相談したところ、時差出勤という形で30分早く出社し30分早く帰宅できるように融通してくれました。 当時、これは公の制度ではありませんでしたが、今はきちんと制度化され誰でも使っています。 育休取得率・復帰率ともに現在は100%で、時代の流れの中でかなり育児への理解も進んだように感じています。 そうやって働き続ける中で、三人目も産んでみようという気持ちになり、2019年2月に第三子を出産。 これがその後の転機となってゆきます。


見えにくい事情があっても、
すべての人が「働き続けられる」社会へ。

歳の離れた第三子の子育ては、「子どもってこんなに可愛いんだっけ!?」の連続。 ただただ必死に過ぎていった上の子二人との時間が少し悔やまれるくらいに、「子どもは可愛く、たくさんの可能性を秘めている」という事実に目を開かれていきました。 その反面で、子を愛すれば愛するほど、育つ環境によってはその可能性を閉ざしてしまう子もたくさんいることをとてもつらく感じるようになりました。 自分の中で膨らんでいく問題意識を無視できず、思い切って児童福祉系の仕事への転職を決め、それを生涯の仕事とすべく一歩を踏み出そうとしているのが今の私です。 当社も子どもたちの探求心あふれる未来へ導くことを使命としているので、子どもの幸福な成長を願うという点では根っこは同じなのかもしれませんが、より直接的にそこに携わろうと決めたのです。

入社してからの17年を振り返って、育児関連の制度も理解も当社は大きく進み、もう「この制度がないから子どもが産まれたら働き続けられない」ということは無いと思います。 ただ、私は出産を機に陸上勤務に切り替えましたが、中には出産後も船に乗り続けたいと思う人が出てくるかもしれませんので、当社でも道が切り拓かれて行ったらいいなと思います。 また、育児は周囲の理解や協力を得やすいのですが、介護や心身の病気、ご家族の事情などもっと外から見えにくい理由で働き続けることに困難を抱えている人もたくさんいると思います。 育児制度の充実はあくまでも先鋒の位置付けとし、最終的にはより多くのケースでみんなが働き続けていけるような会社に、ひいては社会になっていくことを心から願っています。

最後に、当社で得た力を一つ挙げるとしたら、想定外に対応する力です。 自然と対峙し、近年は新型コロナとも対峙した中で、「こうしようと思っていたことがうまくいかなかった」「状況が一変してしまった」ということは何度もありました。 そういう時に、じゃあどうしたらいいのか考える。 粘り強く工夫して乗り越える。 ある意味では常に気が抜けない仕事ではありましたが、鍛えられたと思っています。 次の職場でもこの力を活かし、一人でも多くの子どもたちが、たくさんの良い出会いの中でのびのびと育つ手伝いをしていきたいと思っています。